emotion
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24私にアメリカに帰るという選択肢はなかった。子どもを育てるのにはここは最高の場所だと思っていましたから。幸治さんと一緒につくった薪窯のある作業場「ハル(幸治さん)と一緒につくった窯で、陶器を焼いていたかったから」と日本に残った理由を語ったキャロラインさん。二子窯という薪窯で焼かれた作品は、素朴な風合いがある。に行かなくても、きのこ、山菜、野菜、卵、玄米など、山で採ったり畑で育てたり近所の人たちと物々交換したりして、手に入る。冷凍庫にはイノシシ、ヤギ、鴨など、いただきものを自分でさばいて詰めてあります。珠洲焼も、現金収入よりは物々交換がメインかな(笑)。漁協に勤めている人が定年退職するたびに記念の品として頼まれていたのですが、そのお世話になっている方が木こりをされているので、現金ではなくうちの山の整備をお願いしたりとか。そのような暮らしをしながら、日々楽しく過ごしています。日本定住のきっかけはニューヨーク 私の父はアメリカ人、母はカナダ人で、戦後日本で出会って結婚しました。父は宣教師として、請われるまま世界を転々とし、4人の子どもはそれぞれ、ニューヨーク、北海道、カナダ、アメリカのニュージャージー(私)で生まれています。初めて日本に来たのは17歳のとき。父が函館の教会の牧師をすることになり、高校卒業後、私だけ付いて来ました。そして、1年浪人した後、アメリカのコロンビア大学へと進学。せっかく学んだ日本語をもう少し学ぼうと、日本文学を専攻しました。万葉集や枕草子なども英訳本で学びました。 日本定住のきっかけは、1986年、大学4年生のときに、夫となる渡邊幸治(ハル)と出会ったことです。知人の働く美容室で陶芸展が開催されていて、そこに彼がいた。作品については覚えていないけど、ずいぶんユニークな日本人だなと思いました。実は大学3年生のときに1年間だけ東京の大学に留学したのですが、興味のある授業は少ないし、日本人と留学生は分かれて行動するしで、刺激がなく退屈でした。それでニューヨークに戻ってみたら、ハルと出会った。「なんや、おもろい日本人はニューヨークにいるやん!」と思いました(笑)。 ハルは出会った2週間後にニューヨークから帰国。大阪の実家に帰り、あるギャラリーで珠洲焼の個展を見て珠洲へ向かい、そこで師匠を見つけて住むことにしたようです。手紙が何通か来て、海でサザエを獲ったとか、山でジャズコンサートを聴いたとか書いてありました。それで、私も一度日本の田舎暮らしをしてみようかなと思い立ち、1987年11月、珠洲にやってきました。当初は、彼は陶芸にすべてを捧げて集中していたし、私は誰も知らないし、かなり辛いひと冬を過ごしました。でも冬が明け、知り合いが増えるごとにちょっとずつ楽しくなってきました。13歳からアルバイトをして学費を稼いでいたクチなので、ハルには頼るまいと英会話教室も始めたのですが、子どもたちとの触れ合いも嬉しいものでした。 その後、1988年にハルと入籍。ようやく窯を建てられる土地を見つけ、珠洲の街からいまの場所へと引っ越しました。1993年には長男が誕生しましたが、1998年にハルが逝去。亡くなる前にハルからは、「アメリカに帰れ。ひとりでやっていくには自然が厳しすぎる」と言われたけれど、私にアメリカに帰るという選択肢はなかっ

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