emotion
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08ら、だったら書いたほうが早いんじゃないかと思ったんです。いま思えば、なんらかの自己表現をしたいと思っていた部分はあったかもしれませんね。 高校卒業後は上京して、専門学校の演劇科に入学しました。1年間真面目に通ったけれど、卒業を目の前になんの手応えもなくて、本当に焦りました。それで卒業公演用に脚本を書くことにしたんです。執筆には私以外に4人が立候補。彼らはすでに自分の劇団を持っていたので、私だけがまったくの初心者だったんですが、学費の元を取りたい一心で、「書けます!」と(笑)。それで20分ほどの短い作品を書いたら、わりと好評だったんです。役者を1年間やったよりもずっと褒められた。先生にも「役者をやるより脚本を書いたほうがいい」と言われました。 親とは「2年間だけの上京」という約束だったので、専門学校卒業後は残り1年間でなんとかしなければ、と必死でした。家にワープロが1台あって、アルバイトから帰ってきては小説と戯曲を同時並行で書く日々でした。家の近くの小さなイタリアンレストランでウェイトレスをしていたのですが、ランチ後の1時間はお客さんがほとんど来ないので、店番をしながら紙ナプキンの裏にボールペンで『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』のプロットを書きなぐった記憶があります。戯曲も小説も、どちらも明確な目標というのはなかった。ただ「何かをしていなきゃ」という焦燥に駆られていた。だから文字数を積み上げていくことで、一応今日は何かをしたという“拠り所”にしていました。戯曲と小説が仕上がって、演劇学校で知り合った友人に見せたら、「小説はよくわからない。でも戯曲はおもしろいから、みんなでやろうよ」ということで、2000年に「劇団、本谷有希子」を旗揚げしました。ひとりで脚本を書き、演出を務め、役者を集めて、芝居を上演する劇団です。それまで劇団を旗揚げしようなんて思ってもいなかったけれど、書いた戯曲を発表する場所が必要だったんです。継続が信頼につながっていく 最初の10年は、芝居の公演の合間に小説を書いていました。この仕事の仕方のメリットは、戯曲の書き方がわからなくなったときに、小説を書くことでブレイクスルーできること。逆もしかりで、小説が煮詰まったときに戯曲を書くことで、客観的・相対的にものを見られるようになったというのは大きかったですね。私のやっていることというのは逆転現象というか、あまり小説を知らない状態で小説を書き始め、あまり演劇を知らない状態で劇団をスタートしているんです。つまり、最初に動いて、あとからその世界の真髄に触れるというかたち。もちろん若かった勢いはありますが、まず動いてみるという姿勢はけっこう重要だったのかもしれません。 実は、劇団初の公演『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』は、酷評の嵐でした。小劇場では観客にアンケートを配るのが慣わしで、皆さんみっしりと感想を書き込んでくださるんですが、どれもこれもけっこう辛辣だった。自分が初めて発表したものが酷評されることに耐えられなくて、高田馬場駅近くの高架下でアンケートを握りしめて、うずくまって泣きました。それは初めて他人から直接受けた敵意とか憎悪みたいな、負の感情だったんです。正直辛かった。自分のなかでは華々しいデビュー、絶賛の嵐みたいなものを期待していたわけですから(笑)。特に自分が付けた「劇団、本谷有希子」という劇団名についてアレルギーを覚えた人が多かったです。名前最初に動いて、あとからその世界の真髄に触れるというかたち。まず動いてみるという姿勢はけっこう重要だったのかもしれません。第154回芥川賞受賞作品『異類婚姻譚』(講談社)主人公の専業主婦が、あるとき自分の顔が夫に似てきていることに気づき、夫婦というものの魔力と違和を感じ始める物語。本谷さんならではのユーモアと毒で軽妙に描かれている。ほかに短編3作も収録。

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