人と地域のWEBマガジン ISHIKAWA DRAWER

Makoto IigaiHeadmaster of cramming school "Tabito Gakusha"

飯貝誠タビト學舎代表

その扉の向こうに、社会と世界と加賀がある。

Person

#10

2019.06.13

地域と自分のいまむかし。

昔は加賀にもデパートや映画館があって、モスバーガーやミスタードーナツのようなチェーン店もありましたが、今は全部ないです。もともとは大聖寺が加賀市の中心部だったようですが、特急列車が加賀温泉に※停まるようになってからは繁華街がどんどんずれていきました。小松の高校に通っていたこともあって地元には愛着が薄く、大学生や社会人になってからは帰省するたびに「何かさびれてるなー、何か減ったなー」と思っていました。大学では一人暮らしをしたいとか、神戸や北海道のような良いイメージがある都市がいいなとかいう、単純な理由で進学しました。文学部に進もうとして止められ、商売も分からないし、法律なら数学っぽく論理的でいいかなみたいな、あまりちゃんと考えた選択ではなかったですね。それが今、高校生向けに学習塾を開いた理由でもあるんですが。

※特急列車が加賀温泉に:加賀温泉駅は、金沢を起点にすると大聖寺駅の1つ前の駅です。加賀市内には動橋(いぶりはし)・加賀温泉・大聖寺の3カ所にJR北陸本線の駅があります。

 

振り幅。

法学部には弁護士を目指す人が多かったのですが、そっち方向には興味が湧かず。卒論も、司法試験の勉強が大変なのでないんです。だからするっと卒業しただけで、いわゆる大学生の醍醐味みたいなところは経験しなかったかもしれません。学生時代は勉強もしながら、スケボーをしたりクラブに行ったりと、学外の社会経験も積んでました。高校生のころは、親からはどの大学に行ってもいいけれどお寺の学校で住職になる資格を取って、それからどうするかを考えなさいと言われていました。それが、就職活動の時期になると「新卒採用って大事らしいよ、一回就職活動してみたら」と言うことが変わりまして(笑)。自分の中でも仏教の勉強をしてから僧侶になるか就職するかを考えるつもりだったので、まずはどんな仕事をしたいかを見つめるところから始めました。メーカーの出来上がった商品を気の利いた言い回しで売る営業職は自分には難しいと思い、オーダーメイドのものをつくって困りごとを解決するITとかコンサルティングはどうかなって、当時即席で考えたんですけど。自分が新しもの好きというのもあり、IT業界を選びました。

※将来はお寺で僧侶:飯貝さんのご実家は大聖寺にある本善寺というお寺です。

「ちゃんと考えた選択でなかった」と語る飯貝さん。でも、その思いがあったからこそ、タビト學舎が生まれました。

 

Worked hard, played hard.

NTTデータでは大手法人向けの部署に配属されました。システムエンジニアやITコンサルタントと言われる職種で、プロジェクトごとに東京中を転々としていました。たとえば百貨店を合併する際に、両社のシステムを統合するプロジェクトチームに入るんです。忙しい時は終電で帰って始発で出社ってくらい忙しいんですけど、一つのプロジェクトが終わると1~2週間まとめて休むこともできました。最初の3年くらいは仕事を覚えるのが楽しかったんですが、徐々に違和感を覚えるようになり…。システムをつくるところもかなり大変なんですが、完成後に検証するのがさらに大変で、もっと効率よくできないのかなとか、毎回同じようなミスが発生することなどに疑問を感じ始めまして。

同期も名だたる大学から来ていて、すごく仕事ができる優秀な先輩もたくさんいて、みんなスマートなんですけど、自分がこれからこの会社でやっていきたいかと問われると、100%「はい」と答えられなくなって。それでも、悩ましいけど残業代もつくし、仕事ってこんなものなのかと半ば割り切って働いていました。平日ガーッと働いて土日にパーッと遊ぶ、文字通りの都会のサラリーマン生活でした。入社数年して、友人と都内でルームシェアを始めて中古車も手に入れてからは、週末は東京を出て過ごすようになりました。スノーボードが学生時代からすごく好きで、群馬県でアパートを借りたんです。荷物を全部そこに置き、金曜の飲み会を断って車を飛ばして週末は群馬という、最近でいう二拠点居住みたいなことをしていました。そのうち、人ごみや満員電車が耐えられなくなってきて。週末のためにお金を稼いでるのかな、この生活をずっと続けていてもいいのかなっていう疑問がどんどん強くなってきました。何か新しいことを探したいけど…と模索していたところ、妻と再会しました。

 

この段、真美子さん談です。

主人は小中高と一緒で、大学生や社会人になってもお盆や正月に集まっていた仲間の一人です。たまたま私が金沢から大阪に転勤になったタイミングで、誠さんも平日は東京から大阪に来てホテル暮らしをしながら仕事をしていました。「知り合いいないからお茶飲もー」って。いつも大勢だったのが二人で会うようになり。ふと気づいたら横にいたみたいなっていうことにしておきましょうか(笑)。住んでいる場所は大阪と東京でしたが、そんなわけで頻繁に会っていたので、遠距離※という感じではなかったです。付き合いだしてから半年後に結婚を決めて、その半年後に会社を辞めて旅に出ました。

遠距離:遠距離恋愛のこと。英語ではlong distance relationshipといい、LDRと略すようです。

 

西へ東へ、北へ南へ。

大学時代は全く海外にも旅にも興味はなく、社会人になってからバックパッカーの旅を初めて経験し、「こんな世界があったのか!」と開眼したのですが、もちろんそんな頻繁に旅に行けるものではなく…。妻はもともとバックパッカーの旅が好きで、付き合う前から「世界旅行に行きたい」と話してましたし、付き合った後も「いま本当に自由になったら何をするか」という話題になるとお互い「世界一周したいよね」と言っていました。会社を辞めて旅に出たのは、ライフスタイルを変えたいけど、働きながらでは見つかる気がしなかったというのと、単純に新婚旅行というか、ふたりで世界を旅してみたかったんです。

最初は東南アジアをぐるぐると3ヶ月間。一旦帰国し、義弟の結婚式と妻の祖母の看病で半年間ほど旅を中断しましたが、再び小松空港から中国へ飛び、チベット、ネパール、インドを陸路で抜けて、それからイランに飛んでコーカサス地方を西に進んでいきました。シリアやイスラエルを通ってエジプトからアフリカ大陸に入るつもりでいましたが、中東が危ない時期だったのでアフリカ行きは諦めてヨーロッパを旅しました。ちょうど秋冬の時期で、どうせならとフィンランドの端っこでオーロラを見たり、日本から親を呼んでフランスを一緒に周ったり。ヨーロッパはLCCが発達しているから安く飛行機で移動できるんですよね。それで、ドイツのクリスマスマーケットを見てから一気に真夏のブラジルに飛んで、ぐるっと4ヶ月かけて南米の国々をほぼすべて回りました。

最後にたどり着いたのがブラジルの日系の農場で、そこで村人のように4ヶ月間暮らしていました。40人いる村人はみんな見た目は日本人、ポルトガル語も話すし、日本語も話せます。そこを訪れる旅人は働く代わりに寝床と食事を無償で提供してもらえるというところで、僕たちは農作業を手伝っていました。東京ドーム20個分の広大な敷地でオクラとかかぼちゃなどの商品作物を育てていて、そのほかに自給自足の畑もあって。日本のお祭りや節句など日本の文化も継承されていて、味噌や醤油※、納豆も作ってましたね。村を出てからはガラパゴス諸島、最後にキューバに寄って帰国しました。

※コーカサス地方:カスピ海と黒海にはさまれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる地域。ちなみに「コーカサス諸国」とはアゼルバイジャン、アルメニア、ワイン発祥地としても知られるグルジアの3カ国をいいます。
※味噌や醤油:麹菌を育てるところからやっていたそうです。

真美子さんとお子さんと。これから世界のいろんな話を聞かせてもらえるんだろうなぁ。

1年半後の大収穫。

妻も僕も仕事を辞めちゃったというのは結構大きな痛手だと思ってました。旅に出た最初の頃は妻から「帰国したら何をするか会議しよう」と言われ、「まだ帰国しないからちょっとやめようよ」って話をそらして逃げて、ひとりで考えて凹んだり、焦ったりしてたんですけど。でも旅先で、自分の好きなことしかしないと決めてる旅人や、お金はそんなにないけど家族で仲良く暮らしているイラン人の家族、大学で学んだことを社会で実践するためにNGOに入って活動するチェコの友達とか、そういう人たちに出会って思うところがあって。自分には幼い頃からずっとステータス志向のようなものが強くあったことにも気付きました。だけど、もっと気楽に行けばいいんじゃないかと…。自分が何を大事にしているかを分かっていて、それを大切にしていけば、お金やステータスから離れても豊かな生活を送れるんじゃないかと気づいて楽になったというか、肩の荷がすっと降りた感覚です。日本に帰ったら何をしたら面白いかなというポジティブな考えに変わっていきました。

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