emotion
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最新の設備を備えた大学があるという環境に代表されるように、金沢には新旧それぞれの素晴らしいものが共存しているところがあります。日本三大名園の兼六園、風情あふれるひがし茶屋街や長町武家屋敷跡、加賀友禅などの伝統工芸などがある一方で、片町や香林坊など東京と変わらない最新の文化や環境が存在しており、それがうまくひとつの街として融合しているのがとても魅力でした。特に私にははっきりとした原風景がないだけに、日本の古き良き風景を金沢に求めていた部分があったのかもしれません。 大学では心理学を学んでいました。転校のおかげで人の多様性に興味を持っていたからでしょうか。その時点では将来についての具体的な夢があったわけではないですが、人と接して関わっていく仕事がいいなとは思っていました。生まれたからには世のため、人のために役立つようなことがしたい、と漠然と考えていたように思います。“人と人をつなぐ”宅急便に出会って 就職先にヤマト運輸を考えた契機は、何気ない日常にありました。大学3年生のとき、金沢の下宿先に長野に住む母親から電話があり、「頼まれた荷物だけど、今日送ったから明日着くよ」と言われたことがあったのです。今日送って明日着くわけがないと思っていたら、実際に着いた。それがヤマト運輸の宅急便でした。みかん箱みたいな大きなダンボールを開けてみると、真ん中に頼んだ品物があって、その周囲に私の好きなお菓子やカップヌードル、下着や靴下がぎっしりと詰められていました。金沢でも買える品ですが、そこに母親の“想い”というものをひしひしと感じた。「宅急便というのは、単に荷物が届くだけでなく、人と人との想いをつなぐものなんだ」、そう感じられたことが、のちの就職の決め手になりました。学生時代に漠然とした不安にくよくよと悩む時間があったら、スポーツをすることをお勧めします。テニスに懸けた青春大学時代は硬式庭球部に。「練習はきつかった」というように、ひたすら球を追った。その甲斐あって、北信越ブロックで団体戦は優勝、ダブルスはベスト4に入った。写真は2年生の全盛期のころ。 20代の出会いと挫折は、人を大きく成長させます。そのころの一番大きな出会いといえば、創業者の息子であり、「クロネコヤマトの宅急便」の生みの親である小倉昌男です。私は入社してすぐ、社長の小倉が直轄していた商品開発のセクションに配属されました。「お客様に喜んでいただけることが最大のサービス」という価値観をつくりあげた小倉の一言一句、一挙一動に間近で接することができたのは、非常に幸運だったと思います。またそのセクションでチーム一丸となって全国初の「クール宅急便」を開発できた喜びは、非常に大きかったです。 一方、挫折は、28歳で集配センターの所長になったときのこと。センターで働くセールスドライバーの方々は自分の父親ほどの年配の方が多く、最初は「年上の人たちに自分の指示を聞いてもらわないと!」と頑張っていたわけです。ところが全然言うことを聞いてくれない(笑)。半年くらい、にっちもさっちもいかない状況でした。しかし、よくよく考えたら、人は信頼している人の言うことしか聞かないんです。そこで、皆さんと話す機会を増やし、コミュニケーションを円滑にするよう心がけたところ、協力してもらえるチーム体制をつくることができました。リーダーとして何が大切なのか、非常に勉強になった経験でした。 振り返れば、中学、高校、大学と続けてきたテニスのおかげで、12
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