一橋大学の楠木建さんの著書「ストーリーとしての競争戦略」(東洋経済新報社)ほど面白いビジネス書はそうそうないと思います。500ページもの分厚い本を、苦もなく
夢中で一気に読んだ経験はこの本以外にはありません。この本のメッセージは、著者も言うように、優れた戦略とは思わず人に話したくなるような面白いストーリーだ、ということ
です。
この本で紹介されているエピソードに、ピレネー山脈登山隊が遭難したときの話が出てきます。装備を失い、食料もチョコレートなどの非常食がごくわずか残るのみ、
コンパスもなく全員死を待つのみの絶望の中、ひとりの隊員のポケットから1枚の地図の切れ端が出てきます。これを見ているうちに隊員に気力が湧いてきます。みんなが地図と
実際の景色を見比べながら、あの尾根がこのように見えるのだから我々は今地図上のここにいるに違いない、太陽の方向がこっちだから、この尾根沿いに行けば下山できる、
と地図の上に道を書いていきます。つまりみんなが1つの下山ストーリーを共有して、その結果ピレネー登山隊は奇跡的に下山することができたのです。
ところが、です。
後で分かったことには、その地図の切れ端は、登山隊が遭難したピレネーの地図ではなく、何とアルプスの地図の切れ端だった、というのです。
つまり遭難した登山隊に気力を与え、奇跡的な下山に導いたのは、正しい地図ではなく、みんなで創り上げた一つの"ストーリー"だった、ということです。極限の状況
であっても、魅力的なストーリーは人を惹きつけ、結束を強め、行動に駆り立てるパワーがある、という実例です。
そもそも人はなぜこうもストーリーに惹かれるのでしょう。
子供のときに寝床で親からものがたりを聞く経験を重ねることも無関係ではなさそうです。
そういえば30年近く前、私自身も、妻が子供を寝かしつけるために毎晩ものがたりを作って聞かせているのを見て、"やさしいお化け"から始まる自作の"やさしいシリーズ"
のものがたりを子供に聞かせていた時期がありました。毎晩同じ話をせがまれて自分で飽きてきたために"やさしい10円玉"、"やさしい電球"などと次第にシリーズ化されて
いったのを思い出します。
幼かった子供が、その真似をして、「・・・そうしたらお化けは悲しくなって、おうちに帰って泣き出すの。それを見てお母さんが慰めにいくんだ。そうしたら・・・」と
どんどん話が広がり、新たな展開を自分流の話に仕立てて、それを夢中で語るようになっていきます。これこそストーリーの魅力です。
ビジネスの世界でも、聞いた人がワクワクして思わず人に話したくなるようなストーリーであることが優れたビジネスモデル、競争戦略なのだ。だから経営者やイノベーター
たらん皆さんは、そんな優れたストーリーテラーになりなさい、というのが楠木建さんの著書のメッセージなのです。
私が出会った人の中にも、そういう優れたストーリーテラーが何人もいます。
東上野にある酒店「セキヤ」の店主、関矢建二さんは酒造りのストーリーにこだわった人でした。ご本人は否定しますが、マスコミからは「日本で唯一の酒のプロデューサー」と
称された方でした。(残念ながら既に他界され、今は息子さんが後を継いでいます。)
関矢さんの酒造りはストーリー(ものがたり)づくりから始まります。男と女の出会いや別れ、森の中の夕もやに一筋の光が差し込んだときの驚き、といったストーリーを
表現できる酒を想い、それを酒質設計書に書き起こし、最もふさわしいと思われる蔵元、杜氏を選び、自ら田植え、稲刈りをした酒米からオリジナルの酒を造っていった人でした。
「思わず絶句」「人しれず哀に酔いしれて」「蜃気楼の見える町」「やる気まんまん」「上昇一途」・・。思わず引き込まれるタイトル(ラベル)とそのストーリーを
関矢さんから聞くのが楽しみでお店に通ったものです。ストーリーのあるお酒は量が少ないため高めですが、いつも得した気持ちにさせてくれるお酒ばかりでした。
もう一人のストーリーテラーは小さな本屋にいました。
千駄木にある「往来堂書店」は、配本に頼らず自ら厳選した本の並べ方にストーリー性をもたせた"文脈棚"として用意して、お客様の気づきや想像力を刺激してお客様自身が
本をめぐるストーリーを創る手伝いをしています。
例えば「日本のお酒が一番おいしい」と題する文脈棚には、お酒にまつわる専門書、新書、写真集、マンガ"美味しんぼ"の95巻などがコンパクトに配置、というより
"編集"されています。
この往来堂書店を私に教えてくれたのは某大手出版会社の幹部ですが、彼は時々この往来堂書店を訪れては文脈棚を見て、店長の笈入(おいり)さんとじっくり話すことで
販売統計では分からない、活きた読者動向を把握しているのだそうです。
多くの人を惹きつけるセキヤ酒店と往来堂書店の共通点は、20坪もない小さなお店であることです。
狭い実空間という制限の中で、せっかく来てくれたお客に最大の喜びを与えたいという必死の思いが二人の店主の知恵と想像力を広げ、そこから生み出された"店とお客の
ストーリー"が、遠方からのお客まで惹きつけているのです。
2016/4/10
文責 米川 達也