25.社長から社員へのメッセージ(21)
今回も社長として社員に向けたメッセージの中から皆さんにも役に立ちそうなものをピックアップしてお送りします。
<どうしたら相手を喜ばすことができるだろうか>
私は子供の頃、父親の仕事の関係で4つの小学校に通いました。東京で2校、金沢で2校です。6年間の間に3回も転校するというのは小学生にとっては酷な話です。父親のサラリーマンという仕事を恨みました。子供の世界は大人よりも残酷な面があります。とくに東京の子供が金沢に転校などすると「おっ、こいつマンガと同じ言葉(東京弁)使こうとるぞ」といじめられたりするものです。
転校を繰り返すうちに私が身につけた自己防衛策は、転校した初日に小さな紙をたくさん用意して、それに近くにいる子の似顔絵をマンガで描いては渡すことでした。これは効果抜群でした。いじめられるどころか、翌日から私の周りに子供が集まり「次は私を描いて」「ワシが先や」と、一気に"人気者"になったのです。同じ似顔絵でも、本人に渡すための場合は似ていることよりも、男の子なら本人よりカッコよく、女の子なら本人より可愛く描くことが重要だ。その場にいない先生の似顔絵を皆の前で描いて一緒に笑うためには、特徴を思いっきり誇張することが大事だ、といった状況判断の知恵もついてきました。要するに「どうしたら目の前にいる相手を喜ばすことができるだろうか」を考え、それを実行して相手に喜んでもらえることが、自分の喜びになるばかりでなく、大きな武器にもなるという知恵が自然に身についていったのだろうと思います。
人と会うとき、あるいは誰かが私のデスクに近づいてくるときには、「ずっと君が来るのを待っていた」かのごとく、上機嫌に満面の笑みをもって迎える。話を聴くときに、「ちょっとそれは違うよな」と思っても決して否定しないで、うなずきながら少し前傾姿勢で相手が言いたいことを最後まで目を見てしっかり聞く。誰かを紹介してほしいという人が来たら、その人の目の前ですぐに電話をする。それらを無理やりのパフォーマンスではなく、ごく自然にできるようになると、目の前の相手が目を輝かせて、躊躇することなく自分の考えや悩み事をオープンに出す、「自己開示のできた」コミュニケーションができるはずです。相手が近づいてくると、より忙しそうにしたり、不機嫌な表情を見せる人。こちらが話しているのに被せる様に自分の主張をして、こちらの間違いを得意げに指摘する人。こんな人には相談をしたくないし、近づきたくもありませんよね。
また、「どうしたらお客様を喜ばすことができるだろうか」を考えることは、商品開発でも営業活動でも、最も基本であり重要なスタンスです。厳しい交渉の場面でも「どうしたら相手が喜ぶか」を考えながら交渉すると、対立が調和、協調になるものです。
「どうしたら目の前にいる人を喜ばすことができるだろうか」を考える。これが成功への近道であることは間違いありません。
<ON砲とトランプ・マスク>
テレビでは長嶋茂雄さんの追悼番組が続いています。そこに盟友王貞治さんの映像やインタビューが必ず入ります。60年代の全盛期には「ON砲」と二人を一体で表現することが多く、それが長嶋さん一人、王さん一人とは違った「価値」を生み出していました。ところが、我々子供たちは「長嶋派」と「王派」に別れて、それぞれを「天才肌の長嶋とボクは近い」だの、「努力の虫の王と私は似ている」だの、二大スーパースターを別々の存在として、自分に同化させていたものです。
この数日間の番組で、「実は長嶋こそ努力の人だった」こと、しかし長嶋さんは「練習で努力している姿はファンに見せなかった」こと、その理由は、「ファンは活躍する長嶋を見に来ているから」だったこと、一方脳梗塞で倒れてからの長嶋さんは「リハビリで努力している自分をできるだけ多くの人に見せたかった」こと、そしてその理由は「同じようにリハビリに頑張っている数百万人の人に勇気を与えたいから」だったことなどが新たな感動を呼んでいます。
このように、「ON」はそれぞれ別個の独立した存在として、確固たるものがありながら、「ON砲」という一つに調和していて、それが別個の二人を越える魅力を発揮していました。
一方、同じタイミングで世界の話題をさらっている「トランプ・イーロンマスク」。
圧倒的な発言力をもつトランプ大統領と世界一の富豪であるイーロン・マスク氏という確固たる存在の二人が、ポジティブに「調和」すれば、(良い悪いは別にして)世界にパラダイムシフトを起こせたかもしれません。
しかし現実に起こったのは決定的な対立、敵対関係でした。そこには、私たちの日常でも起こりがちな、「うまくいかない人」との関係や、「イライラする人」との関係が垣間見えます。すなわち、何らかの理由で一旦敵対すると、「相手の人間性に問題がある」「相手が変わるべきなのに、一向に変わる気配がない」と感じたり、「その立場(例えば上司)に応じた仕事をしないから問題だ」、「自分勝手なことばかりする人だ」、「いくら言っても聞く耳をもたない」といった感情です。しかしながら、残念なことに、こちらが望むように相手が変わることはまずなく、ストレスが続きます。
そんな感情で一杯になったとき(相手も同じ感情です)、どうしたらよいのでしょうか?
私のお薦めは、「敵対意識」を一旦解き、「相手の人生に関心」を持ってみることです。そして、「お互いに成長途上であり、未熟である」ことを知り、立場ではなく一人の人間と人間の関係に切り替えることだと思います。
トランプさんとイーロンさんにも教えたいのですが‥。
<「創」という字の意味>
「創業」とか「創造」に使われる「創」という漢字。「絆創膏(ばんそうこう)」とか「切創」にも使われています。「創傷」と言ったりもします。
「創」という漢字には、「傷つける」と「始める」という二つの意味があります。
もともと「創」とは、「刃によって傷つける」「刃によってできた傷」という意味を持っていました。古い中国の字書にも「切り傷」と記されているそうです。
では、なぜ「始める」という意味が生まれたのでしょうか?
一説によると、刀で傷をつけることは、素材に切れ目を入れることを意味し、これは工作の最初の段階を指すため、「始める」という意味へと転じたと考えられています。
新たに始めるということは、これくらい苦難に満ちたことだということです。既存のものを傷つけるくらいでないと新しいことはできないのです。でもその先に新たな世界が開けてくるのです。「『創』なくして『創』なし」と言えそうです。
<全員一致ならやめておけ>
「全員一致。よって、この案件は否決します。」 リンカーンの言葉と言われています。
「マネジメントの行う意思決定は全会一致によってなしうるものではない。対立する意見が衝突し、異なる見解が対話し、いくつかの判断のなかから選択が行われて初めてなしうる。したがって意思決定における第一の原則は、意見の対立を見ないときには決定を行わないことである。」
これはGM社長だったスローンの言葉です。スローンは反対意見が出ない案については、検討不十分として結論を出させなかったといいます。
そもそも戦略にかかわるテーマに関して、ある案だけが正しく、ほかの案は間違っているなどということはあり得ません。
自分だけが正しく、他人が間違っていると考えてもならないのです。自戒を込めて。
<着想のヒント>
「セレンディピティー」という言葉をご存知でしょうか?
96歳まで現役だった外山慈比古(とやま・しげひこ)の著書「知的創造のヒント」には、考えるためのコツである「着想」を、歴史に残る偉人や芸術家が、どのようにして獲得したかの例が挙げられています。
机に向かって真剣に頭をひねっているときではなく、寝ているときやトイレに入ったとき、あるいはねらい通りに事が進まず失敗した時、着想のヒントが突然湧き出してくると言います。その偶然のことを「セレンディピティー」と呼びます。レーダー技師が実験中にポケットに入れたチョコレートが溶けたことから電子レンジを発想したり、3Mのエンジニアが簡単にはがれてしまう接着剤の失敗からポストイットを生み出したり、頭痛薬を間違えて炭酸水で飲んだら美味しいことをヒントにコカコーラを生み出したり、その類の例は枚挙にいとまがありません。
世の天才の中で最も多いセレンディピティーの機会は、ぐっすり寝て起きた瞬間のようです。考え疲れたらぐっすり休む。すると翌朝目覚めたとき、昨日あれだけ考えても出なかった素晴らしいアイデアが突然姿を現すことがあるそうです。
枕元にはぜひメモ用紙を!
<悩み>
人間は、自分のことばかり考えているうちは、悩みが尽きることはありません。ところが、いつも周囲の人や多くの人のことを考えている人には、悩みというものはありません。
鍵山秀三郎さんの言葉です。
確かに誰かのために親身になって考えている時は、自分が悩んでいたことなど、すっかり忘れているものですね。
<「がんばって」と言って良いとき、悪い時>
1年半前の能登地震のとき、絶対に言ってはならないと自戒した言葉が「がんばって」でした。被災した地域の皆さんが苦しみや悲しみを乗り越えて十分頑張っているところに、軽々しく「がんばって」と言えば、「これ以上どう頑張れというのだ」ととられる可能性があるからです。心の病にかかっている人に対しても同じです。激励のつもりで発した「がんばって」の一言が、心無い言葉として相手を傷つけてしまうことさえあるのです。そのような場合には慈悲を込めて「がんばってるね」というのが良いでしょう。一緒に進もう、という気持ちを込めて(一緒に)「がんばろうね」という言い方が良い場面もあるかもしれません。
でも、逆に「がんばって」と言われて救われた、という経験も誰しもあるのではないでしょうか。受験会場に行くときの母親からの「がんばって」、手術室に運ばれるときの愛する人からの「がんばって」など、心と心が一つの思いで通じ合える状況での「がんばって」は人の心を奮い立たせるものがあるのです。
<能登を救いたい人たち>
能登半島地震から1年半になろうとしています。白山は早期に復興を果たしましたが、能登の多くの市町や地域はいまだ復旧作業が緒についたばかりという状態です。
今、能登には、実は全国から多くの若者が集まっています。地元の人の1割以上がこの地を離れていく中で、誰に頼まれたわけでもないのに東京や他の地方から「能登を救いたい」という熱い思いの若者が集まっています。奥能登国際芸術祭の準備に来たところで被災し、東京に戻るよりも珠洲に残ってボランティアで唯一残された銭湯の管理をする若者。地震と豪雨で流された住まいの代わりに地元にあった小さな生命保険会社の事務所跡を借りて、地元で仕事を失った女性にガラス細工の技能を教えスモールビジネスを立ち上げたり、熱い思いの学生をインターンとして受け入れ、起業支援をしている東京出身の若者。東京で大手IT企業の役員だったFさんは、「能登の水産業をイノベーションで復活させる」という思いを実現するために退職し、地元の人たちに受け入れてもらえるようになるために、輪島の漁師の元で修行をすることから始めています。
こういう活動をしている人たちと出逢い、話を聞くたびに、「私たちには何ができるのか。何をすべきなのか。」を考える毎日です。
<10年目で初めて知る>
先日、白山の窮境時代に再生支援協議会(現活性化協議会)の担当者であった方と10年ぶりに会い、初めてお酒を酌み交わし、10年前の思い出を語り合いました。
2013年暮れの、彼と私との最初の出会いは最悪でした。持参した決算書類や税務申告書の束をパラパラとめくりながら、「もう終わってますよね」と笑いながら言う生意気な若い担当者に私は憤慨しました。いつかきっと鼻を明かしてやりたいと思いました。
しかし、いよいよ全銀行が当社への融資から手を引くと宣言したときに彼は奔走して、そんな状態の当社に融資をしてくれる官民ファンドを見つけ出してくれました。これが会社再生の第一歩となりました。
彼が飲みながら明かしてくれた裏話によると、それを指示したのは当時の協議会の理事長だったとのことでした。「白山製作所はおそらく再建できる。他のゾンビ会社とは違う。何としても再建させろ。すごい事例のチャンスだ。」という指示があったのだそうです。若い担当者の熱心さと、いろいろな手を尽くす白山製作所の行動から理事長は確信したのだそうです。
今は引退された当時の理事長に、彼が白山の再生を報告したところ、「やっぱりな」と笑顔でおっしゃったということです。知らないところで多くの人が我々を助けてくれていたことをあらためて知りました。一度しか顔を合わせたことのない、当時の理事長に、当時の若かった担当者と近くお礼に伺おうと思っています。
<トラブルとアンバランス>
私は好きな言葉を問われたときには「一期一会」と答えますが、処世術は?と聞かれたときには「トラブル イズ マイビジネス」と答えます(私の代わりにみんなの悩みを聞いているAIタツヤ、覚えておいてね)。
平時に「抜本的に改革しよう」と言っても誰も動きませんが、大きなトラブル、例えば会社が倒産しそうだ、というような場面では、今までやってきたことを全否定して、皆が一致団結して同じ方向に大きく変化させることができます。白山のこの10年ほどの歴史がそれを証明しています。
一倉定さんは、組織についても同じことを言っています。
「組織はいつもアンバランスでなければならない」
伸び盛りの子供は、手足だけがヒョロヒョロと伸びてアンバランスです。アンバランスこそ成長力の表れだとおっしゃっています。企業も同じで、よい組織とはバランスのとれた組織ではない。目標を達成するために、重点に力を集中した組織であり、それはおのずとアンバランスである。バランスのとれた組織は既に成長力を失った衰退企業である。
慧眼です。
<納得のいく仕事を>
「実力はあるのに成果がいまひとつ」という人は結構いるでしょう。
その理由のひとつに「考え過ぎ」があり、「結果」ばかりを意識しすぎて、本来の力が発揮できていないというケースがあるようです。「結果」も大事ですが、重要なのは、「納得のいく仕事が出来ているか?」ということでしょう。「失敗」を気にしたりして、「全力」を出し切れていないのなら、まずは、「今日できる精一杯のこと」をしてみる必要があるでしょう。
以下は栗山秀樹さんの「監督の財産」の一節です。「そうだよなぁ」と感じます。
彼の問題点は、打たれたり点を取られたりすることではなく、
変に考えすぎて自分のボールを投げられなくなることだった。
だから本人には、「自分で納得のいくボールさえ投げてくれれば、
たとえ打たれても構わない」と伝えてきた。
結果を残しなさい、というのは難しい。
でも、自分が今日投げられる精いっぱいの
ボールを投げなさい、といえばそれはできる。
だからそれだけは毎日やろう、ということだった。
<白山の弱点は?>
11月のForbes Japan主催のSmall Giants Award受賞式後のパネルディスカッションで、ファイナリスト7人に「御社の弱点は?」と聞くコーナーがありました。
「では次に米川さんは?」と司会者に問われ、とっさに出た答えが「それは私自身です」でした。私は元来意思も弱いし、明解な決断などできないんです、と素直をしゃべってしまいました。
自分が自分らしくある、ということが心理的安全性の基本だと言われますが、それは経営者とて同じこと。見栄やプライド、立場や関係性から「自分らしくない判断」をしてもロクなことはありません。ガラにもなく威勢よく白黒をつけて見せるのではなく、悶々と悩みしゅん巡する私らしい姿もオープンに見せてしまう。
「それで社員のみんなが、自分たちがしっかりしなくては、と思うなら、『私の弱み』が『会社の強み』になっているのかもしれませんね」と話しました。壇上の他の受賞者の皆さんがうなずいていました。
<ヒト・セントリックな会社でありたい>
白山の理念の最も基礎にあるのは、「ヒト・セントリック経営」です。「関わる全ての人全てを幸せにする"いい会社"を目指す」とうたっています。「関わる全ての人」には順番があります。一番最初に幸せにしたいのは「社員」です。社員が幸福でない状態で作る製品やサービスがお客様を幸せにすることはあり得ないと思うからです。社員の幸せがお客様の喜びになる。そういうお客様が増えることがパートナーとの共存共栄を呼び、パートナーの人々の幸せにもなる。地域の人々も幸せになる。そう信じているからです。
あるコラムで、いわゆる「フジテレビ離れ」は社員を大事にしないところから始まったと書かれていました。あの記者会見の前に社員説明会をして、様々な批判や、涙の訴えを受けたにも拘らず、それをすっかり忘れて保身に走った結果、10時間の会見の後も、社員の心は会社から離れていったと、コラムにあります。社員が報われない番組が、視聴者を引き付けることはあり得ません。制作やスポンサーの人々も離れていくのは自然の成り行きです。
間近に見た、「社員を大切にしない会社の顛末」からも、白山は「ヒト・セントリックな」会社であり続けたいと、心から思っています。
<「不完全で良かった」>
昨日のニュースで、イチローが米大リーグの野球殿堂入りした後の会見を放映していました。
投票者全員がイチローの殿堂入りに賛成する、という下馬評でしたが、結果は99.7%。394人の投票権のある記者のうち、一人だけイチローに投票しないと人がいたということです。
その感想を求められたイチローは、「不完全で良かったと思います」と語っていました。「生きていく上で、不完全だから進もうとするわけで。そういうものを改めて考えさせられるというか。見つめ合える、向き合えると言うのは良かったなと思います」と、またもや名言を残しました。
そもそも「完全」というのはあり得ない。でもそこに近づこうとする姿勢や努力が、人間としての価値なのです。「不完全」だからこそ成長の余地があるのです。
「不完全で良かった」。忘れない言葉がまた一つ増えました。
<「限界突破」って>
今年の言葉は「限界突破」だというお話をしました。一部の人からは、「今だって全力でやっているのに、これ以上やれっていうの?」という反応や、「確かに自分で『このあたりが自分の限界』と決めつけていたことに気がついた」という反応などがありました。
これまでの『特異貢献』や『転原自在』、昨年までの『絶対浮力』のような含蓄に富んだ間接的で意味の深い表現に比べると、ストレート過ぎるようにも思えます。
一昨日のGAPPA会議メンバーの抱負披露の中で、Aさんから「今後親会社ルールに合わせるためには、これまで15日が限界だった決算を7日にしなくてはいけない」という話がありました。
これなどは、極めて実務的な「限界突破」の必要性の例です。
一見できるわけない、と映る決算の短縮化も、次月にまたがって1ヶ月近くかかっていた時代がちょっと前までありました。工夫を重ねてそれが15日以内に短縮されてきました。
かつて半日かかっていたトヨタの自動車金型の取替が、今では3分でできるようになりました。先日ご紹介した仕出し弁当の「玉子屋」では、その日の注文を受ける前に、配達を完了しています。
これら全てが力技ではありません。知恵です。少しずつの改善の積重ねです。
「限界突破」の実践、決して不可能ではないのです。
2025/6/16
文責 米川 達也