金沢大学先端科学・社会共創推進機構

VBL

61.人は変われるか?

-ポスト・ヒューマン誕生-

昨年末、お正月用の暇つぶしに読む本は無いかと近所の図書館を訪れ、パソコン関係の本棚の近くで見つけたのが『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュー タが人類の知性を超えるとき』(注1)という刺激的なタイトルの本です。 2007年に発行された600ページもある分厚い本です。 暇つぶし用のSF小 説と勘違いして気軽に借りて帰りました。 
 ところが読み始めてびっくり、中身は人間と情報の未来についていろいろなことが論理的に書いている難しい本でした。 あとで分かったことですが、原本のタイトルは「The singularity is near: When human transcend biology」で、アメリカの発明家カーツワイル氏によって書かれたまじめな未来予測本でした。 眉に唾をつけて、読み進んでいくにつれて、この本で提案している新しい世界のあり方と、このシリーズの「 災害対応ロボット 」で紹介したパナソニック(株)代表取締役 副社長林靖雄氏による、「東日本大震災からの復興」-医療・福祉現場の再建を支えるサービスロボットの中で取 り上げられていたサービスロボットシステムが似ているように思えてきました。パナソニックの林氏の話はIT技術をサービスロボットに適用し災害現場等に も役立てるお話ですが、この本の場合はIT技術を微細なロボットに適用して、人間の知能を補完もしくは代行する話であり、用途は全く違います。ただ、そ の実現にあったてはロボットを使うこと、基本となるのは情報であり、情報の処理がサービスそのもであるというところは、全く同じです。キーとなるのは物 的資産ではなく情報資産である、というあたりに何か興味を引くものを感じました。
 それはともかく、この本は遺伝学(Genetics)、ナノテクノロジー(Nanotechnology)、ロボット工学(Robotics)の3つの革命(GNR革命 )をベースとして、まもなく情報と生物が交差する特異点が 来ることを予言しています。ナノテクノロジーはともかく遺伝学に疎い私としては、とても全部が正しいのかどうか判断できませんがかなりの部分は説得性が あるように感じられました。この後は情報とロボット工学をベースとしたイノベーションを考えるのに役立ちそうかどうかを探ってみたいと思います。

指数関数的成長

読み始めて最初に目を引いたのは図1のグラフです。指数関数的成長が線形成長と全く違った特徴を持つことを示しています。私は会社勤めをしてい た頃、会社から与えられた年間目標を月間目標に変えて自分の仕事の計画を立てていましたが、この時はたいていは線形(直線)で近似していました。このよ うな仕事のやり方に慣れた会社人間であった私は、なんでわざわざこんなことをと、思ってしまいました。 確かに、経済成長率にしろ、物価上昇率にしろ、会 社の目標設定にしろ多くは前年比XX%増と与えられるのが普通でした。 そのXX%がせいぜい5~20%と小さく計画期間が約1年と短いため、線形で間に 合せていたのです。この本を読んでいて最初に感覚と理論のギャップもしくはミクロとマクロの違いを考えさせられたところです。イノベーションや起業を 考える時には、両方が必要であることを思い出させる図です。

線形的成長と指数関数的成長
図1 線形的成長と指数関数的成長
出典 レイ・カーツワイル 「ポスト・ヒューマン誕生」 p22

この図で、曲線の折れ曲がり点として示されているのは、このあたりを境にして、それまでの変化の少ない状況から急激に変化量が増え、その性能の変化 を多くの人が感じ初めるところです。このような社会を大きく変える所をこの本では特異点(singularity)と呼んでいます。この特異点はこの 本の原本のタイトル「The singularity is near 」に使われている重要なキーワードです。特異点は、普通の言葉でいえば転機、変革、イノベーションそして革命のようなもので、誰も抵抗できない歴史的現象です。そしてそのような特異点(GNR革命)は間もなく来る。 2045年 だというのがカーツワイル氏の主張ですが、時期については読む人の判断に任せた方がよさそうです。ただ、この時には1000ドルのコンピュータの1秒あ たりの計算能力が人間すべての計算能力を越えるとした予測には、注意を払っていいかもしれません。人間は、並行処理を行うことにより、結果を素早く出す 事は出来るのですが、計算処理速度自体はあまり速くないためこんな結果になるようです。

一方、財の消費量が増えるにつれて、財の追加消費分(限界消費分)から得られる効用は次第に小さくなる、とする考え方もあります(いわゆるS字カーブ です)。 これを限界効用逓減の法則(law of diminishing marginal utility)、又はゴッセンの第1法則というようです。このような、従来経済学者が言っていたことは、ミクロな個別事象について起きる事であり、限界効用に達したものは他の技術にとって代わられるために、マクロの世界では指数関数的成長すなわち収穫加速の法則 が成立するというのがこの本の考え方です。


指数関数的成長の例

IT関係の人なら、常識ともいえるものの一つが1970年代の半ばに、インテル社の会長となったムーアが発言した「およそ24カ月で集積回路上に詰 め込めるトランジスターは2倍になる」(ムーアの法則)です。その他の要素の効果も入れると「およそ12カ月でコンピュータのコストパフォーマンスが2 倍になる」といわれています。図2に示すように、過去100年くらいの間のデータを見れば確かに情報処理関連のハードウエア技術の進歩は、上記指数関 数的成長の正しさを示しています。IBMに働いていた1970年半ばのころ、海外で出席したセミナーで、ワトソン研究所の方が、あと10年くらいで、皆 さんが売っている大型コンピューターとほぼ同じ性能のものがアタッシュケースくらいの大きさになり、持ち運びできるようになると言われた時は、研究者はず いぶんほらを吹くものだと感じたのを思い出します。ともかく思いがけないことも起きるものだと考えたほうが良さそうです。

ムーアの法則
図2 ムーアの法則
出典 レイ・カーツワイル 「ポスト・ヒューマン誕生」 p82

ところが、カーツワイル氏によれば生物の進化も、技術と同様に指数関数的成長を遂げているとの事です。 その例として、原始地球に生物が現れてからの、エポックとなるような現象について以下のような図(図3)を出しています。 

特異点へのカウントダウン
図3 特異点へのカウントダウン
出典 レイ・カーツワイル 「ポスト・ヒューマン誕生」 p31

この図では、生物の進化と人間のテクノロジーの変化の間隔がドンドン短くなってきていることを示そうとしています。しかし、意地悪な見方をすれ ば、昔の事はよく分からないし、細かい情報もないので次の事象までの時間は当然長くなるが、最近の事は、関心も高く、分かっていることも多いし、記録も多 くあるので変化が激しく見えるだけだとの批判もあるかもしれません。例えば哺乳類が現れてから霊長類が現れるまでの時間とパソコンが現れてからウエブが 現れるまでの時間を、同じ重みで考えてどんな意味があるだろうと考える人はいませんでしょうか?というような話です。本当に昔の生き物は毎日同じこと をしていたのでしょうか?などなど気になるところが多い図です。

そんな批判はともかく、図2のような事例(IT技術について他にもいろいろ取り上げています)と図3を統合すると、「過去の生物の進化もテクノロ ジーの進化も纏めて考えることが出来るはずだ」というのが、カーツワイル氏の進化に対する考え方です。カーツワイル氏は更にテクノロジーの進化を将来に まで展開して、下表のような6つのエポック(時代)を提案しています。

エポック

進化の情報 

 進化

 1  物理と化学  原子構造
 2  生物  DNA  DNA
 3  脳  ニューラル・パターン  脳
 4  テクノロジー  H/W,S/Wの設計情報  テクノロジー
 5  テクノロジーと人間の知能の融合  生命のあり方とテクノロジーの融合  テクノロジーが生命のあり方を支配する(人間の知能も含む)
 6  宇宙が覚醒  宇宙の物質とエネルギーのバターンに、知能プロセスと知識が充満する  大幅に抵大された人間の知能: (庄倒的に非生物的)が、宇宙のすみずみまで行き渡る

この表にあるように、エポック1の物理化学的な時代から、エポック2の生物の時代、そして生物(おもに人間)の脳の時代であるエポック3を経て、現在はエ ポック4のテクノロジーの時代と規定しています。そのテクノロジーが発展して単に情報の記憶と転送と簡単な処理の時代から、人間の脳の働きを解析し、シ ミュレートし、人間の脳以上のスピードで処理し行動出来るようになる時がエポック5の始まり(特異点 )としているようです。そして、その時期を2045年としたわけです。 2045年であれば、本の筆者をはじめ今の若い人には現世での未来の話 です。あまりにもうまく出来すぎているようでもありますが、その方がベンチャーを始めたり、研究を始めたりする人にとっては励みになりそうです(うがち すぎかな)。その後この技術が完成し、人間が始めた知識をベースにしたモノが宇宙を満たすことになるという、SFの世界(エポック6)に入ってくるとし ています。

特異点ではどんな事が起きるのだろうか

2045年には、GNR革命により次のようないろいろなことが可能になるとしています。例えば、

遺伝学にかかわる技術を利用して
 遺伝子改変された子供が生まれている
 永遠に生き続ける方法が研究されている
 特定の遺伝子のmRNAの動きを抑える事が出来る
 心臓疾患を撃退する
 癌を克服する
 若づくりする
 クローン人間が実現している

ナノテクノロジーの技術を利用して
 ナノレベルのサイズ(100ナノメータ位の)のコンピューターや、その構成部品が製作され始めている
 ナノレベルの物体が体内を自由に動き回る
 
ロボット工学の技術を利用して
 細胞を加工するロボットとしてナノボットやステルスナノ粒子が実現している
 自己集結し、より大きな構造(システム)になる事ができる
 互いに、連絡を取りながら活動する
 
であろうと、しています。 

すなわち、100ミクロンくらいのコンピューターや通信装置を備えたロボットが体の中を自由に動きまわり(ちなみに人間の赤血球の大きさは直径が7~8ミ クロンですからそれと比べても相当に小さい)、人間の細胞や脳の細胞さらには体外の情報組織とも情報のやり取りを行い、人間の思考方法やその仕組みをコ ピーし、人間と同様な思考システムの作りだすことができるようになる。その上ナノボットが細胞に薬を注入したり、細胞やDNAのそのものも変更したり、 細胞を再構成することができる時代が来るとしています。

ナノボット
図4 ナノボット
出典 レイ・カーツワイル 「ポスト・ヒューマン誕生」 p289ト

図4はこの時使われるナノボットの構造を示すモデルです。このようなロボットが体内に入って、薬剤を細胞に注入したり、時には人体の遺伝子を修正したり、癌細胞を見つけてその構造を変えたり、破壊するというものです。 これは、小さくて、人間の体内で活動するとを除けばネットワークに繋がれた、 災害時のサービスロボットと同じ構造です。 ITの立場から言えば、バイオテクノロジーやナノテクノロジーでこの本に書いてあるようなものが作ればロボットシステムは実現できます。この本で取り 上げているケースは、体の細胞の寿命を延ばしたり、修復することにより、人間の機能を拡大させるものとしています。こうして人間の寿命を延ばし、健康に 生きる事が出来るようになるという誠に楽しい世界です。更に脳に上記のようなロボットを送り込み、体や外部の情報を送りこむことが出来れば、体そのもの は、必ずしも必要ではありません。 更には、自分の脳の働きそのものをコンピュータにアップロードすれば、生身の脳が無くても意識を持ち続け、生きている ことを体験できるわけです(これが日本語の本のタイトル「ポスト・ヒューマン誕生」のイメージです)。カーツワイル氏はこれが特異点を過ぎてから起き る人類の未来の姿だと言っています。

イノベーションへの教訓

この本にはこのような一般的な事柄だけではなく、それを支える技術についてもう少し具体的なことが書かれています。書かれている事が本当に実施さ れていくと、とんでもないことが起きそうです。現実には、ほとんどの人は、こんなことは起きないだろうと考えるだろうし、もし起きるようなら、法律を変 えテクノロジーの発展に制約をつけるべきだと考える人も出てくるかも知れません。

たとえば制約の方法として、オリンピックにおけるドーピング禁止のように、人工的に強化された人はオリンピックに参加でしないとすることも考えられ ます。しかし、BNR革命の恩恵を受けた遺伝子障害者が、ここで挙げたような未来の成果を利用して、町内運動会で100メートルを5~6秒で走っている 時代に、オリンピックで健常者が100メートル9秒前後を争っているレースを見て、興奮することが出来るのでしょうか。既に、車いすマラソンの最高ス ピードは時速約30キロメートルで、健常者のマラソンの最高スピード時速約20キロメートルを凌いでいます。車いすマラソンの場合は、明らかに車いすと いう道具を使い違いが見えているるから良いものの、遺伝子治療を受けた人は外見は全く見分けがつかないわけです。そのうちパラリンピックの選手の方がオ リンピックの選手より成績がいいということになるでしょう。プロ野球もテニスもそうです。パラリンピックチームや素人チームの方がプロチームより強 く、プロチームは負けてばかりとなりそうです。慈善事業ででも無い限り、高い入場料を払ってそんな弱いチームの試合を見に行く人がたくさんいるでしょう か?

企業経営についても同じかも知れません。BNRで強化された人間が経営する企業と、現在のようなIT装備はしているが個人的・人間的欲望から抜け 出られない人間が経営している企業では、どちらが生き残る可能性が高いでしょうか。更には従業員を採用するとしたら・・・核兵器の場合と同じよう に、BNRを開発した国が、他の国に対してBNRの開発を禁止する条例を作り、永久にその他の国の人の能力を劣ったレベル縛り付けるような差別をしていい のでしょうか・・

他にも考えなくてはいけない事がいっぱいあります。ただし、どのように制限していっても、少なくともBNR革命の傾向はある程度は進むと考えざるを得ません。それなら早くやった方が生き残るというのが歴史の教訓です。とすれば
 1.このような状況を推進する事業と、
 2.それを阻止する事業、
 3.あるいは両方ともおこなう事業の
3つの立場で事業推進計画を作り出せそうです。
いずれの立場で事業を始めても、大変面白いテーマになることは間違いありませんし、BNR革命が起きたあとで、想定外であったと支配する人たちを恨んでもしょうがありません。せめて、図5にあるように、自分の強みを生かせるGNRの3つの動向を整理して、自分の立ち位置に合ったイノベーションのネタ探し だけでも行っておくのはいかがでしょうか?思わぬときに花開くかもしれません。


図5 GNR革命で自分の出来るところは?



補足:この本で参照した『ポスト・ヒューマン誕生』(注1)は600ページ位の本で、読むのは大変です。特異点がどんなものかを知るのであれば『レ イ・カーツワイル―加速するテクノロジー』(注2)の方が読みやすいです。基本的考え方、ナノボットのイメージ図やレイ・カーツワイル氏の活動状況など が対談を混じえて書かれており、100ページ位です。まずはこちらを読んで、興味をもたれたら『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超 えるとき』をお読みになって、仕事や研究の計画の参考にされた方がいいかもしれません。

注1) レイ・カールツワイル著/井上健監訳、小野木明恵・野中香方子・福田実共訳『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき』、NHK出版、2007年
注2) レイ・カールツワイル+徳田秀幸著/『レイ・カールツワイル―加速するテクノロジー』、NHK出版、2007年


2012/01/26
文責 瀬領浩一